2013年9月26日木曜日

ザ・ロスチャイルドここだけの話(5)

1760年、ポンパドゥール夫人はブルゴーニュ地方で評判の高い、ロマネ村のぶどう畑の入手に乗り出します。
その畑のワインは上質で、先代の太陽王ルイ14世が、健康薬代わりに毎夜スプーン一杯ずつ飲んでいたことで知られていました。 自らの権勢を誇示するため、夫人は畑の所有を熱望します。
そこに横槍が入ります。平民出身の愛妾を快く思っていなかったコンティ公爵がより高い価格で対抗して、落札したのです。 畑はロマネ・ポンパドゥールとならず、ロマネ・コンティとなります。


ルーブル美術館(パリ)にて、ポンパドゥール侯爵夫人の肖像画と筆者

ポンパドゥール夫人は、報復措置でコンティ公を失脚させ、怒りにまかせてブルゴーニュワインを宮廷から締め出します。
代わりになる上質ワインを探すのに躍起になっていた夫人のもとへ、知事としてボルドー地方に赴任していたリシュリュー公爵が、シャトー・ラフィットを携えてやってきます。
余談ですが、公爵はマヨネーズを世に広めた人物です。現在でいえば敏腕な食のプロモーターですね。 夫人とルイ15世はラフィットを気に入り、ヴェルサイユ宮殿の晩餐会の御用達としました。 こうしてCh.ラフィットは「王のワイン」の名声を得ます。

品質ばかりでなくその逸話も魅力的なラフィットの畑は、人々の垂涎の的で、入手は極めて困難でした。 ユダヤ人への反感もありました。
それでもジェイムズ・ド・ロスチャイルドは37年間も粘り、ついに1866年、「王のワイン」の持ち主になります。


ジェイムズ・ド・ロスチャイルド

ロスチャイルド・ジャパンの方と取材でお会いしたときの話です。
「シャトー・ラフィットをいくらでも飲めるなんて、羨ましいですね」と言ったところ、「一級格付けのシャトー・ラフィットの生産は少量で、高く売れますから、めったなことでは飲みませんよ」との答えが返ってきました。
お客さまをもてなすときも、もっぱらセカンドワインだとか。 お金持ちでいくらでも高級なワインを飲んでいるのだろうなあ、などと勝手に想像していましたが、実際は、そんなこともなく、ひたすらビジネスに徹しているようです。

値ごろなセカンドワインといっても侮ってはいけないのだとか。 まさにここだけの話、年によってセカンドワインが1級のCh.ラフィットと同水準、もしくは超えることがあるそうです。
誕生日や記念日に奮発してみるのもいいかもしれません。

ザ・ロスチャイルドここだけの話(4)

「王のワイン」と異名をとるシャトー・ラフィットは、1868年にロスチャイルド五兄弟の末子ジェイムズが新たな所有者となりました。


Ch.ラフィット2008年

元々ラフィットとムートンは隣同士の地続きの畑で、セギュール家が所有していました。
ヴァレンタインの時期に、大きなハートが印象的なエチケットのワインを見かけたことがありませんか。 あの赤ワインはCh.カロン・セギュールといって、ボルドーの3級格付けワインです。
この畑を愛したのが〝葡萄畑の王子″と呼ばれたニコラス・ド・セギュール侯爵です。 彼は18世紀当時、Ch.ラフィットを所有していたにもかかわらず、カロンのシャトーの門柱に「我、ラフィットを造りしが、我が心カロンにあり」と彫らせました。ハートのエチケットは、このセギュール侯爵のカロンの畑への情熱に因んだものです。
友人たちは侯爵の行為に驚きます。 この頃すでにラフィットが「王のワイン」として名声を確立していたからです。


Ch.カロン・セギュール「恋人たちのワイン」として人気

なぜCh.ラフィットが「王のワイン」と称されるようになったのか。 そのきっかけを作ったのが、世界で最も有名なワインといわれるロマネ・コンティです。
時代は18世紀中頃、マリー・アントワネットが断頭台の露に消える30年ほど前です。悲劇の王妃は、まだ、フランスに輿入れしてきていません。 この時期、ヴェルサイユ宮殿に君臨していたのはポンパドゥール夫人、ルイ15世の公式愛妾です。彼女の名前をつけたパン屋さんが日本にあります。 フランスパンを発案したといわれる夫人に、敬意を表して名付けたと聞いたことがあります。

2013年9月23日月曜日

ザ・ロスチャイルドここだけの話(3)

「ザ・ロスチャイルド」ここだけの話 2話

(本稿は、去る7月24日、東京・丸の内KITTE内JPカンファレンスホールで開催された、小説「ザ・ロスチャイルド」出版記念講演会の内容が元になっています)

ワイン愛好家たちは「ロスチャイルド」の名を聞いて心を躍らせます。
フランスでもボルドー産赤ワインは別格ですが、その最上とされる一級格付けは、Ch.(シャトー)ラフィット、Ch.マルゴー、Ch.ラ・トゥール、Ch.オー・ブリオン、Ch.ムートンの5つのシャトーのみです。 このうちラフィットとムートンの2つをロスチャイルド家が所有しています。
ラフィットがフランス・ロスチャイルド家(五男ジェイムズ系)、ムートンがイギリス・ロスチャイルド家(三男ネイサン系)です。


ボルドー5大シャトーのワインたち

まずご紹介するのはシャトー・ムートンです。
ナサニエル・ド・ロスチャイルドが1853年にシャトーを購入しました。 この人物は、小説「ザ・ロスチャイルド」の主人公ネイサン・マイヤーの四男です。
写真は2003年のボトルです。2003年はナサニエルがシャトーを購入してから150周年ということで、エチケット(ラベル)にはナサニエル本人の肖像画と購入時の契約文書があしらわれた、特別なものになっています。


ムートンのエチケットの意匠は年ごとに変わり、当代の偉大な画家や彫刻家たちへ依頼されます。
シャガール、パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、マリー・ローランサン、ミロ、サルバドール・ダリ、アンディ・ウォホール、バルテュス…近代・現代美術の巨匠たちの手によるラベルは、もはや〝飲むため″のワインの域を超えて、芸術的価値の高いコレクターズ・アイテムとなっています。

日本人では、1979年に堂本尚郎が、1991年にSetsuko(バルテュス夫人でもある)がデザインを手掛けました。 どちらも未年のエチケットで、もしかしたら2015年は、日本人アーティストによってデザインされたものを目にできるかもしれません。

2013年8月19日月曜日

ザ・ロスチャイルドここだけの話(2)

上の2つの紋章は、ロスチャイルド家とナポレオン・ボナパルトのものです。 左の鷲が翼を広げているのがナポレオンのもの、右の5本の矢がロスチャイルドの家紋です。
周囲の文字はモットーを表し、ラテン語で(Concordia、Integritas、Industria)協調、完全、勤勉とあります。 なぜロスチャイルドの家紋が5本なのか?小説「ザ・ロスチャイルド」に由来のエピソードを織り込みました。読んでみてください。
もしかすると由来のエピソードを知って、「あれっ?戦国武将のあの親子の話に似ているな」と思われるかも知れません。 実は著者である私も、はじめてロスチャイルド家の5本の矢の逸話を知ったとき、そう感じました。

調べてみると、ヨーロッパ各地や中東、中国など世界中に類似の話が存在しています。 そして最後に行き当たるのが古代スキタイ国、紀元前6世紀から3世紀頃まで黒海南部から中央アジアにかけて繁栄していた騎馬民族国家です。
この頃の中国は春秋時代、孔子が活躍した時代です。ヨーロッパの地中海沿岸では古代ギリシアが繁栄していました。


有名な「スキタイの黄金」美術
エルミタージュ博物館所蔵

現代の技術では復元できない

スキタイと古代ギリシアの都市(ポリス)のいくつかは交流があり、スキタイの「矢の話」は古代ギリシア時代に生きた歴史家ヘロドトスの記述に残されています。
スキタイは地理的位置から中国とも交流があったと考えられますから、スキタイの故事が西と東の両方に広まり、2千年以上もの長い間、語り継がれたのだろうと思います。それだけ人の心に訴える話なのでしょう。

実はここだけの話、ロスチャイルド家の方々は、五本の矢のエピソードについて日本人から「オリジナルはどちらですか」とたずねられると、「きっと毛利家ですよ」と答えるのだとか。さすが、如才ないですね。見習うことにします。

次回は小説「ザ・ロスチャイルド」とワインの華麗なる話をお送りします。

ザ・ロスチャイルドここだけの話(1)

「ザ・ロスチャイルド」ここだけの話 1話

去る7月24日に、東京丸の内にあるKITTE内JPカンファレンスホールにて、小説『ザ・ロスチャイルド』出版記念講演会が開催されました。
当日、あいにくの雨空で足元が悪いなかをお越しくださった参加者の皆さま、運営に携わってくださった家計の総合相談センターの皆さま、ダイヤモンド社の皆さまに、心より御礼申し上げます。

おかげさまで沢山の方に来場いただいて、盛況のうちに終えることができました。
ただ、「平日の夜、東京の会場に行くのは難しい。残念である」というお言葉も何件か頂きました。 講演会では、ロスチャイルド家とナポレオン・ボナパルトについて、執筆の過程で知り得たこと、見聞きしたことを紹介しました。

料理あり、音楽あり、絵画あり、歴史あり。小説を読むのに、単に筋書きだけ分かればよいという考え方もあると思いますが、歴史を舞台にした物語の場合、その背景として描かれる事柄がわかると、いっそう楽しく読んでいただけると思います。
そこで、当日お話した内容のダイジェストを、何回かで紹介していきます。『ザ・ロスチャイルド』をすでに読まれた方も、まだ読んでいないという方も、ぜひお楽しみください。

さて、第4回城山経済小説大賞をいただいた『ザ・ロスチャイルド』は、18世紀後半から19世紀はじめ、動乱のヨーロッパを舞台に繰り広げられた、英雄ナポレオンと金融ロスチャイルド家の影の戦い、経済戦争を題材に描かれた物語です。
このロスチャイルド一族、ヨーロッパでは広くその名が轟いていますが、日本では名前を聞いてすぐにピンとくるのは、金融機関や商社、それに飲食関係に勤めている方くらいかも知れません。 彼らは世界的に名の知られるユダヤ人金融財閥一族です。

2013年7月27日土曜日

渋井真帆さんの出版記念講演会

7月24日に、東京丸の内のKITTEにありますJPカンファレンスホールで、渋井真帆さんの出版記念講演会が開催されましたので、その様子をご紹介いたします。

200名以上の方にお申し込みをいただき、たくさんの方にご来場いただきました。
第1部の講演では、城山三郎経済小説大賞の受賞作品「ザ・ロスチャイルド」の取材話、当時の芸術家達の話から現在のロスチャイルド家の様子。
また面白く本を読むコツ、読んでほしいポイントなどをお話しくださいました。


第2部では、佐高信氏との対談でした。
佐高先生のストレートなお話に、真帆さんも時にはタジタジになりながらも、笑い声がたくさんの対談となりました。
次回作についてのお話もありましたので、そちらも楽しみにしたいですね。


スライドショーでもご覧いただけます

当日は、20代~90代までの方がご参加頂きました。
この模様は、週刊ダイヤモンド8月に掲載されますので、そちらも楽しみにお待ちいただければと思います。

2013年6月26日水曜日

7/24(水) 出版記念セミナーが開催されます

7/24(水)に東京丸の内で「ザ・ロスチャイルド」の出版記念セミナーが開催されます。
場所は、KITTEがございますJPタワーホール 4Fになります。

働く女性のための経済セミナー

城山三郎経済小説大賞の選考委員でもあった作家佐高信氏にもご参加いただきます。 渋井さんのサイン会も行われますので、ぜひご参加いただければと思います。

『ザ・ロスチャイルド』が出版されました

渋井真帆さんの新刊、第4回城山三郎経済小説大賞を受賞された『ザ・ロスチャイルド』が6月21日にダイヤモンド社より出版されました。

内容は、19世紀にのヨーロッパ全土を震撼させた2人の怪物、ナポレオン・ボナパルトとネイサン・マイヤー・ロスチャイルド。2つの正義、2つの理想、男たちが目指したものは何だったのか? 世界を牛耳る金融王国の原点が描かれています。

ザ・ロスチャイルド | 渋井真帆 著 | ダイヤモンド社
ザ・ロスチャイルド | Amazon

2013年6月18日火曜日

第五回 : ヨーロッパひとり旅 (3)

1週間ほど経って、ホテルの部屋の窓から、朝陽を浴びるフィレンツェの大聖堂を眺めていたとき、日本から国際電話をもらいました。

「『ザ・ロスチャイルド』が第4回城山三郎経済小説大賞に決まったよ、おめでとう」
半年間離れていた、夫の嬉しそうな声が聞こえてきます。

「感想は?」
「ありがとうの言葉で胸がいっぱい」
私は電話を切ると、窓を開けて大きく伸びをしました。
半年間、多くの人たちのやさしさに助けられてきたと思う。 日本で大人の留学を応援してくれた人、異国の地で手を差し伸べてくれた人。
心から感謝します。



ここから色々な場所に行けるとおもうとワクワクします



ベニスのゴンドラ、おひとりさま



パリでの一コマ:カプチーノでひと休み



パリの素敵な風景

2013年6月16日日曜日

第五回 : ヨーロッパひとり旅 (2)

訪れた場所はどれも魅力的でしたが、ベルギーのワーテルローがとくに印象に残っています。
英雄ナポレオン・ボナパルトの最後の戦場として歴史に名高いわりに、交通が不便で、観光化もされていません。 それでも歴女の私にとっては、ローカル列車と徒歩20分、タクシー20分を乗り継いでも訪れたい場所です。
ところが帰り用に予約したタクシーがやってきません。運転手さんの携帯に電話してもつながりません。 管理事務所らしき建物もすでに閉館して、日もとっぷり暮れてしまいました。


ワーテルロー古戦場、ライオンの丘にて

こんな異国の原っぱにひとり残されても焦らないのは、「四十にして惑わず」の年頃のせいかも、などと考えながら辺りを歩いてみると、少し先に明かりの灯った建物が見えます。 丸太小屋風のつくりで、地元の人たちが集まる居酒屋のようでした。 窓から中をのぞいてみると、19世紀初めのフランス兵や将校の格好をした人たちが、ビールジョッキを手に楽しそうに歌っています。 私は好奇心に駆られて居酒屋の木扉を開けました。歌が止んで、人々の視線が一斉に集まります。
Bonsoir」と笑顔であいさつすると、向こうも「Bonsoir」と返してくれました。
彼らは英語を若干は理解できるけれど、フランス語しか話せないそう。 私のほうは少しならフランス語を解するけれど、話すのは苦手。相手はフランス語、こちらは英語で話すという奇妙な会話が続きました。

居酒屋にいた地元の人たちは親切で、ブリュッセル駅行の直行バスがあることを教えてくれ、バス停までの地図と時刻をメモに書いてくれました。
「皆さんのコスチュームは、ナポレオン1世時代のフランス軍のものですよね」
帰りの交通手段のめどがついたところで、気になっていた質問をしてみます。
「今日は練習日だったんだ」
「練習?」

「ああ、『14番目のナポレオンの露営』イベントの練習さ」
200年ほど前のワーテルローの戦いを記念して、戦いがあった6月18日前後に、毎年イベントが開催されるのだとか。
「露営の様子や食事、戦闘を当時のままに再現するんだ。今日は戦闘の練習をやったよ。ちなみにナポレオンとウェリントン、贔屓はどちらかい?」
「J'aime beaucoup Napol?on!」(ナポレオンが大好き!)
「じゃあ、われわれの仲間だ。出会いに乾杯!」
ベルギービールを飲みながら、ナポレオン談義に花を咲かせました。 どこの国でも、歴男・歴女は分かりあえるものです。 タクシーが来なくて結果よかった。


地元の人から二角帽をかぶせてもらう、シアワセ。



200年前、ナポレオンは戦い、敗れた。

2013年6月15日土曜日

第五回 : ヨーロッパひとり旅 (1)

5か月間のカナダ生活を終えて、私はヨーロッパへ旅立ちました。半年にわたる海外滞在の最後の1か月間で、次回小説の取材も兼ねて、ヨーロッパ各地を巡ることにしたので、日程をご紹介します。

10月29日 バンクーバー発、台湾経由で成田へ(飛行機)
10月30日 成田着
11月 1日 成田発、ロンドンへ(飛行機)
11月 9日 ロンドンからユーロスターに乗ってブリュッセルへ、
       滞在中、ローカル列車でワーテルローへ!
11月11日 ブリュッセルからタリスに乗ってパリへ
11月19日 パリからTGVに乗ってトリノへ、トリノからユーロスターイタリア(Frecciarossa)に
       乗り換えてフィレンツェへ
11月22日 フィレンツェからユーロスターイタリア(Frecciargento)に乗ってヴェネツィアへ
11月25日 ヴェネツィアからユーロスターイタリア(Frecciargento)に乗ってローマへ
11月29日 ローマからロンドンへ(飛行機)
11月30日 ロンドン発、成田へ(機中泊)
12月 1日 日本帰国

今回の旅では列車を主に利用しました。主要都市以外の風景に接したいのと、他国同士が地続きであるという、日本にない地理的特徴を体感したかったからです。飛行機、列車は各社ホームページ、ホテルはHotels.comやBooking.comにネットでアクセスして、バンクーバー滞在中に手配済です。


フランス・ベルギー・オランダ・ドイツを結ぶ高速列車Thalys(タリス)



パリ北駅

2013年6月3日月曜日

第四回 : イチローを観にNYヤンキーススタジアムへ (3)


打席に立つイチロー選手

「お姉ちゃん、ファールボール取ったら僕にちょうだいね」
前の座席の男の子が振り向いて、青い目をくりくりさせながら頼んできました。

「お姉ちゃんは素手だからな、俺がこのグローブで取ってやるよ」
と、隣の席の男性。今日のピッチャーはCCサバシアだから、相手チームの攻撃陣はボールを引っかけてファールばかり出るだろうとのこと。
けれどファールはなかなか飛んできません。 7回攻守替えの頃には男の子も半ベソ気味。

すると隣の男性が立ち上がり、一塁に向かって大声で叫びました。
「おーい、スウィッシャー。この将来の大リーガーboyにボールを投げてやってくれ」
直後、スウィッシャー選手がキャッチボールで使っていたボールが、男性のグローブに吸い込まれました。
「これがアメリカ野球の文化なのさ」
ボールを男の子に渡しながら、彼が誇らしそうに胸を張ったのが印象に残っています。



ボールを手にしてご満悦

 

2013年6月1日土曜日

第四回 : イチローを観にNYヤンキーススタジアムへ (2)

「ticketmaster.comのサイトをこまめにチェックしてみるといいよ」
と、教えてくれたのは個人レッスンをお願いしていたシカゴ出身のAnthony。
「法人が接待用にキープしたチケットが、何らかの理由でディスカウントして売られることが意外とあるんだ」
「そんなチケットは一瞬で買われてしまうわ」と、私。
「そうでもないさ。内野席は高価だって思い込みがあるから、たいていの人は空きをチェックすらしないんだ」

なるほどと朝、昼、晩サイトをチェックしていたら、本当に出てきました。8月29日の対ブルージェイズ戦、エリア14Bの6列6番、1塁側の前から6列目の席です。嬉しいことに予算内での購入です。


座席にもヤンキースのマークが!

当日はタイムズ・スクエアのホテルから地下鉄に乗って161St. Yankee Stadium駅へ。
売店で購入したヤンキースTシャツに着替えて、いざ球場に足を踏み入れます。まず驚いたのは天然芝の美しさです。
濃い緑色、グランドの赤茶けた土色、その向こうに広がる初秋の澄みきった青い空。ウォーミングアップやキャッチボールをしながら、観客の呼びかけに気さくに応える選手たち。野外のピクニックにやってきたような、伸びをしたくなる開放的な空間です。とにかくフィールドと観客の距離が近い。フェンスも無しです。


フェンスなしのスタジアム


ウォーミングアップ中のイチロー選手

2013年5月31日金曜日

第四回 : イチローを観にNYヤンキーススタジアムへ (1)

たしか7月下旬だったと記憶しています。 夕ご飯の友にMLB(メジャーリーグ野球)中継でも観ようかとTVをつけました。
映ったのはシアトルで開催されているヤンキース対マリナーズの夜試合。

マリナーズの本拠地シアトルは、バンクーバーから南に向かって230キロほど、車なら2時間半の距離です。
MLB観戦のバスツアーも出ているので、滞在中にイチロー選手の雄姿を見に行くつもりでした。


ビールを冷蔵庫から取りだし、テーブルについてTVの画面を見た途端、私は「あっ」と声をあげました。
イチロー選手が敵のNYヤンキースのユニフォームを着て打席に立っているのです。 しかも背番号は「51」でなく「31」。

ドッキリか、それとも何かのアトラクションか。やがてヤンキース側の攻撃が終わり、イチローは一塁側ベンチではなく、敵の3塁側ベンチへ駆けていきました。 この瞬間、ようやく私は状況を飲み込めました。
イチローはヤンキースへ移籍したのです。 TVの解説によれば、その日の午後、シーズン途中での移籍発表記者会見が行われたのだという。
わずか3時間後、イチローは新たなユニフォームに袖を通し、古巣のチーム相手に、古巣のグランドで試合に臨んだのでした。


NYに行こうと、次の瞬間には心を決めました。
ベーブ・ルース、ジョー・ディマジオといった野球史に残るスター選手を輩出した名門ヤンキースとイチローの組み合わせは見逃せません。
現役でもジーターやAロッド、リベラ、サバシアなどオールスター級の選手が揃っています。

ひとりで初NY旅行はいささか気が張りますが、メジャーリーグファンとしては、人生に一度はヤンキースタジアムで試合観戦したいものです(と、野球好きのアメリカ人なら誰でも願うのだとか)。

問題は観戦チケットの入手です。 メジャーリーグで最も人気のあるヤンキースの本拠地戦チケットは入手困難。
ほとんどの席が年間シートで、一般発売される枚数は前売り券すらごくわずか。2009年に新しいスタジアムになってからは世界中の野球ファンが訪れるようになり、一層むずかしくなっているそう。

旅行会社のツアーに参加する方法もありますが外野席です。 バックネット裏とはいかなくても、やっぱり内野席10列以内で観たい。
だけど予算は200ドル以内。旅行会社に個人手配の相談をすると、内野席チケットは額面でも500から1000ドル以上すると教えられました。


Mr.NYヤンキースことジータ選手

2013年3月16日土曜日

第三回 : 渋井式、海外での友人のつくり方 (3)

私は3人の言葉を聞いて驚きました。3人ともグループワークのときは、取り付くしまもなく素っ気なかったのです。
「あのときは、Mahoが出来ないことを知らなかったのよ」とM。

「事情を知ったからには協力するから、もうしばらく頑張ってみなよ」とJも言います。
「よし決定!」と声をあげたのはEでした。「私たちがサポートするって約束するから、Mahoも必ず授業に出席するって約束してね」

「初めて会った私を、どうして助けようとしてくれるの?」
「だって、それは…」3人がほぼ同時に答えました。「相手が困っていると知ったら、手助けするのが当たり前でしょ」

 

彼女たちの言葉がヨーロッパの、そして米国大陸に住む人々の文化なんだということが、その後の経験を通して私にも理解できました。
とくにヨーロッパ系の人々にはそれが顕著だと思います。一見すると冷たい印象があるけれど、相手が困っていると知れば、精一杯手助けしようとしてくれる。といっても、彼らはこちらが困っていることを察してはくれません。

しっかり言葉で伝えないかぎり、気づいてくれません。数ヵ月後、ヨーロッパを列車でひとり旅したときにも、それをしみじみ実感しました。
言葉にさえして自分の欲していることを頼めば(その理由も説明できればなお良し)、相手のできることなら大抵やってくれます。できないときも、その理由をきちんと説明してくれるので、こちらも対応しやすいです。

 

E、M、Jとは多くのことを語り合いました。「Mahoの英語の勉強になるから」と、彼女たちが色々な場所に引っ張ってくれたおかげで、沢山の経験をし、ヨーロッパ、中南米を中心に多くの国の人々と接することができました。

そうした交流を通して、彼らが「討論」を好むことを知ったのもいい勉強になりました。とくに社会や政治、経済システムの国ごとの違いに関するテーマは、誰しも好んだのが印象的でした。彼らに言わせると、日本人はあまりその類の話をしてくれないそうです。

そのためか、私がビジネス経験も踏まえて話をすると、たどたどしい英語でも熱心に耳を傾けてくれました。もちろん、彼らも私に分かるレベルの英語で、熱心に自分たちの国のシステムについて説明してくれました。

私の英語力が少しは上達したのは、彼らとのこうした討論のおかげです。

 

第三回 : 渋井式、海外での友人のつくり方 (2)

授業開始10分後には、スタッフの言葉を鵜呑みにした自分を呪いました。CBSラジオ二ユースの書き取りなんて難易度トリプルA級です。

現地のカナダ人たちが日常生活で聞くラジオ報道を完璧に聞きとって、その場でノートに書くなんて私には無理。
そんなレベルに達していたら、語学学校にそもそも通いません。

右隣の生徒のノートをそっと覗いてみると、出来ています。ペンを持った手がすごい速さで動いています。
左隣も、前も、左右斜め前も同じ。圧倒されてぼんやりしていると、

「Maho、まじめに授業に取組みなさい」
と、先生からの厳しい声が…。まじめにやっているけれど、分からない、出来ないんです。

ラジオから流れてくるアナウンサーの英語が早いし、おまけに専門用語が多くて分からない。90分後、ようやく休憩に入って、私は筆記道具をカバンにしまい始めました。

途中棄権は嫌ですが、ここまでレベルが高過ぎると仕方がありません。リスニングクラスはあきらめて、空きのある会話クラスに替えてもらおう。原則1週間は受講しなければならない規則だけど、どうにか頼むしかありません。

 

「何やっているの? まだ授業は終わっていないわよ」右隣の席のMがたずねてきました。
「このクラスは難し過ぎて、私はついていけない。だからもう退席する」

「くじけちゃ駄目よ」
大声を出して話に割り込んできたのは、左斜め前のEでした。

「誰だってはじめの頃は大変なのよ。でも踏ん張って取り組んでいけば、必ずできるようになるから」
「だけどさっきグループワークをやったとき、私が出来ないせいで時間内に課題が終わらなかったじゃない。みんなに迷惑をかけるのは嫌なの」

「迷惑なんて、そんなこと誰も思わないわよ」とE。
「人それぞれ出来る限りで、精一杯やればいいのよ」と、いつのまにか話に参加していたJが言います。


2013年3月13日水曜日

第三回 : 渋井式、海外での友人のつくり方 (1)

ホームステイを終えた私は、バンクーバーの中心街(ダウンタウン)に位置するイェールタウン地区でコンドミニアムを借り、独り暮らしをはじめました。

イェールタウン地区は元は倉庫街でしたが、再開発によって生まれ変わり、洒落たブティックやカフェ、レストランなどが立ち並び、5分ほど歩いてたどりつけるヨットハーバーまでの道のりには、オーガニック食材を扱った高級スーパーマーケットがいくつかあります。都心の白金と自由が丘、さらに品川の海岸地区を足して割ったような雰囲気といったところです。

コンドミニアムのキッチン。使いやすかった。
近くの海沿いの遊歩道。毎朝のウォーキングコース。

引っ越しが済んだところで、翌週から語学学校に通いはじめました。学校での出会いを通じて、ヨーロッパ、南米、アジア、中東など、さまざまな地域からやってきた人々と交流を持てたのは収穫です。

そのうちの何人かとは、帰国後も友人として付き合いを続けています。写真で一緒に映っている友人は、E、M、Jですが(プライバシー保護のためイニシャルのみ記載)、フランス、ブラジル、ドイツとそれぞれ出身の違う彼女たちとは、トフィーノやビクトリアへ旅行に行ったり、バンクーバーの海岸で夕陽が沈むまで語り合ったりと、短くも濃密な時間を過ごしました。

ヴィクトリア旅行。E、J、Mと。

彼女たちと出会ったのは語学学校のリスニングクラスです。
私が通っていた語学学校にはリスニングクラス(聞き取りレッスン)が3コースあったのですが、クラスの予約を取りにスタッフ・センターを訪れたときには、すでに初級と中級のクラスは満員でした。
先生のクラスだったら席がひとつ空いているから、挑戦してみる?」と、スタッフ。

先生のクラスって、難しいんじゃないですか」と、警戒する私。
「大丈夫、全くそんなことないわよ」
というスタッフの言葉に背中を押されて、とにかく受講してみることにしました。