2012年8月16日木曜日

第一回 : プロローグ(1)

突然、携帯電話が鳴りはじめました。10秒、20秒、30秒……無視するつもりでしたが、留守番電話の設定をし忘れたのか陽気な音楽はいつまでも止みません。相手もけっこうしぶとい。ついに根負けして、布団から腕を伸ばして着信ボタンを指でさぐります。

「やっと出てくれたー」

耳に入ってきたのは、友人のはつらつとした声。だいぶ長いこと会っていないから、久しぶりに飲みに行こうと一方的にまくしたてます。
「気がついたらもう一年の半分が過ぎていてびっくりよ。仕事やりくりするから、とにかく六月の末に飲みに行こうよ」

「悪いけど、わたし無理」
「そんなに忙しいの?」彼女の声が鋭くなります。管理職になったせいか、近頃は心なしか声にドスがきくようになったかも。「何とかしなさいよ」
「どうしたって無理、ごめん」私は眠い目をこすりながらこたえます。

「あんた、もしかして居眠りしてたでしょ」
こんな日が昇っている時間に昼寝ができるなんて、フリーは気楽でいいねと、彼女がちくりと皮肉をいう。 「仕方がないよ、こっちは真夜中なんだから」

「こっち? 今、どこにいるの」
「バンクーバー」
「バンクーバーってどこだっけ? そうか、タイの首都だ!」
それはバンコクです。
「バンクーバーだってば。英誌『エコノミスト』が実施している世界でもっとも住みやすい都市ランキングで、5年連続1位に輝いているカナダ西海岸の都市よ」

「いつから滞在しているの?」
「到着したのは6月3日」
「いつまでいるの?」
「半年間。留学することにしたの」
ほんのちょっと間が空いて、すぐに耳が痛くなるほどの声が電話口から響きます。

「仕事は? どうしたのよ」
「半年の間、休業することにしたわ」
「旦那も一緒?」

そうはいきません。彼は日本に残って仕事をしています。
「寂しくないの?」
そんなはずないじゃない、と叫びそうになるのを慌てて押しとどめます。真夜中ですし、下の階にはホームステイ先のリタイアしたカナダ人夫妻が眠っています。それにしても結婚して17年、はじめて離れて暮らすことになったわけですが、正直を言うとこんなに寂しい気持ちになるとは予想外でした。一緒にいるときは口喧嘩ばかりだったのに。そういう意味では夫婦仲が微妙なときは、海外留学別居がおすすめかも知れません。かといってウチの夫婦仲が険悪なせいで留学したわけではないので、あしからず。

渋井真帆のカナダ留学日記: 留学日記:プロローグ(2)